昭和四十三年九月九日 朝の御理解


ただいまから昭和四十三年九月九日朝の御理解を頂きます。 
X第45節「世に三宝様を踏むな。三宝様を踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実ほどかがむ。人間は身代りが出来たり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほどかがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく頭を欝というが天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから、頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり、手をふり上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出るとおかげをとりはずすぞ。」


これはまあ色々にこの御理解を頂きます。特に、世に三宝様を踏むな。三宝様を踏むと目がつぶれると言う。ここんところは先日の御理解で宝様、宝様というふうに頂きましたですね。というのは、私どもが信心してわからして頂いた事は困ったとか難儀といったような時ほど、徳を受けるチャンスである。大きなおかげをうけるいわば、時期が来ておるときなんです。いわゆる、そこんところを難儀、即みかげとおっしゃる。それをたとえば、信心をしておっても難儀を難儀と頂いておる。ならば、これはもう折角の宝様が宝様にならん。これはもう絶対のものですからね。そこんところ頂いていかなきゃいけん。だけではない。そのたとえば、宝とも世の中の宝とも人間の宝ともいわれるような大変なありがたいものを私どもがおろそかにする。それに不平を言う。不足を言う。言うならばです。だからそれが無駄になるというだけではなく、ここには目がつぶれるという。目がつぶれるということ、これは例えば、信心さして頂くもの信心する者は、肉眼を開いて心眼を開けよとおっしゃるが、おかげを頂いて行くと、本当の事が見えるようになる。今まで難儀だったなあと思ったのが、よくよくわからして頂けたら、これは神愛の現れであった。神様の思いの現れであった。どうぞ、氏子助かってくれよという真実の助かりを受けてくれよという神様のお催促であるね。そういうおかげのお差し向けであるというようなことがわかってくるということは、肉眼を得て心眼が開けてきよる。心の目が開けてきよる。今までたとえば、病気なら、病気ばかりしておったのが、病気じゃあないことがわかってくる。神様のいわば、神愛、お徳を受けさせようという働きのそういう現れであると、それは見えてくるようになるのですから、まさしく心の眼が開けてくるわけですね、というように個々の私は御理解の一番大事なことはここだと思うのです。ここんところ真実、このように頂いたんですね。ここんところは信心頂いておりましたら、ここんところではない所を一つ頂かしてもらう。人間は、身代りが出来たり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる神信心して身に徳がつく程かがんで通れ」とこうおっしゃるこれはです。人間は身代りが出来たり、少しばかり、財産が出来てくるね。又、人から先生と言われるようになり、旦那様といわれるようになると、大将とたてられるようになると頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れと。ですから、ここんところはですね、私は思うのは私どもがおかげ頂きゃはずだと思うことはですね。皆さん私を含めてみんなですよ。本当のおかげを頂けんはずだと思うことは、身に徳をつくほどの徳も受けていない人から先生といわれるほどのおかげも頂いてない。身にだんだん身代りも出来ておらんのに私どもが頭を下げることを忘れる、言うならば、みんながよかことしとる。これではもう、いよいよ私どもも身代りが出来たり、先生と言われるようになり、旦那様と言われるような身分になってみた。その時には、頭を下げんのは人を軽う見る。者を軽う見る。だから、肝心要の宝様と言われるような宝様までも踏みつけて開きかけた。心眼がつぶれるような目がつぶれるとおっしゃる心の目が開きかけておる。心の目までもつぶしてしまうような結果になっておるようなことはなかろうか。とかく出る釘は打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから、頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり、手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出るとおかげを取り外すぞ。私は昨日の朝一通り朝のお取次を終わらせて頂いてから或は車*の車で由布院に参りました。温泉のあるところです。もう一面識もない人の所を尋ねた訳です。うちまで迎えに来て頂いて迎えの車で参りました。まあ、とにかく、驚くことばっかりでした。とにかく、第一あそこはああいう高いところですから。もうとにかく涼しいですね。私のような暑がりでも汗が出ない。もう本当にすばらしい。いうなら、別荘地です。もう幾山も幾山も何万坪という所を買い占められましてね。それはもう見事なお菓子のような家が建っておる。みんなどこどこの旦那様といわれるようなひとばっかりがそのいわゆる別荘地が出来ておる。もうそれこそ一寸ひねれば熱いお湯が出て来る。ちょっとひねれば氷のような冷たい水が出る。もう何もかも恵まれた土地なんです。周囲が伊布院という山が目の前にそびえております。**ああいう所に別荘を持ったら、すばらしかろうと思った。福岡の方、お金持ちが沢山家をここに買うておられる。それを買い占めておられる方との面接でございました。私はお話ながら、もうおじいさんかと思いよったら私より二つ若いもう第一それには驚きました。たった50倍の若さでね。こういう事が出来られる。熱海と言われたか、鎌倉と言われたか、東京にも何億という貯金を持っておられる。もうそれこそ出来なさらんことがない。絵を書きなさる子をかきなさる。見事な字を書かれます。もう参りましたら、すぐお昼でしたから、ああいう山の中でこういう山海の珍味があるじゃろうというごちそうでした。夫婦とも良い方ですね。ところがですね。そういうその恵まれた方なんですけれどもね。最近、ちょうどここんところに出て来るような感じの所にまあ直面しておられる。何億円というそこんところが、裁判になっておられる。だから、これが例えば取られ取られようとされておられる何億円というそれを先日も税務署が来た。だから、税務署と話をしておられたそのことを話とられましたが、あれを取り戻してくれれば、3億円税務署に納められると言うたと自分で言うておられる。その住まいなどと参りますとなんといいますかね、もうそのセンスの素晴らしさ。私は随分いろんな人と会いましたけど、こんな人は初めてです。もう家の造り、それがたくさんの家を建てなさるのに自分が全部設計なさる。その家が一件一件ただあかぬけのしたというよりも実に親切なその設計がしてある。もう愛情があふれているわけですね。細かいところまで、心が神経が行き届いているような家が建っておる。もうお昼は上の方の別荘のあるところの家で頂きました。夕食をご自宅の方で頂きましたのですけれども三十畳間位の部屋にとにかく大きなソファーが大きなのがどんと置いてある。こちらの所には、**を書き、字を書かれたのがずーと置いてある。もうコットーなどというものは加賀百万石の殿様が持ってござったような金の印篭なんぞ箱いっぱいある。印篭だけでも私は若い時にはこれを腰に下げてですね。銀座あたりを練り歩くとき、そんな中に金の壷を入れておった。してから、女給さん達にチップ代わりにやったことがあると話しておられる。始めはこの人はやましで大だこばかり言うておられる感じだった。実際にそれを見てるとそうじゃない。それをやってのけた人だと思わなければおれない。いわゆる実力者である。何をさせても出来ると言う今の首相なんかとも何時も飛行中行ったり来たりするたびに会われるという。向こうも、まあ私もそういう方とも初めて会いましたが、向こうも又、私のような人間と会うたのは初めというような先生あなたとこうやって話をしておると先生は何も肩をいからしちゃない。もうその宗教家とか何とかいったような単坊主に会えば単坊主に会えば単坊主的な者がある。何か宗教といやーこちえらくないから。けどここんところ私は思うのです。先生と言われれば言われるほどこうかがんで通るようなこと教えた頂くからおかげを頂いておるんじゃないかというて私が遜ってばかりではいない。私があちらに参りましたときにあそこでお昼お食事をさせて頂いた時、御神酒頂いて休ませて頂きました。さっそくお夢を頂きました。さっそくお夢の中に社長さんという人が出て来ましてね。社長さんの事を****いかんはずが***ぶらさがっておられる。*****
生き延びておるという感じである。そのことを話しましたら、先生その通りです。本当に今現在、私はこう後からその自分のいわば願っていかなければならん。遠慮していかなければならん人達が今私の方にいっぱいぶら下がっておる状態まで私は申しました大きな果物、巨峰をいただきますから。例えばあなたは巨峰のようなもんだ。だから、今すばらしいんですよ。味わいは、けれどもあなたはこれをたとえば、これにお恵みの水をさしてそしてそれを蓋をして例えば発酵するのを待ってブドウ酒が出来るようにですね。ものが出来るようになった時いよいよあなたは、鬼に金棒だろう。まあそれは意味がわからんかどうかわからんからと奥さんにくれぐれもそれを言うておいた。そんなことがございましてね、とにかくですね、もう三十畳余りの部屋にね、応援があり、それからですね、たたみそうですね。こんなのは世界に*****
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とにかくとにかく一歩も二歩も変わった方、私は便所に案内されて驚いた。とにかく人間子宝と言われるような漆がですね、漆を塗りこめてある。とにかくそれこそもう鏡のような見事なお手洗いである。どんなに考えたっちゃ私はあそこで便所はできなかった。みんなあそこにいっちゃった方が植木やさん達が言っとりましたが又とこんな所は使えんからというて使いよんなさったですけれど私はよう使いませんでした。そういうところも私は先ほどそのことを自分でも思わして頂いて私はここんところにブレーキが何時もかかっておったらおかげを落とさんですむと思うんです。私があのタバコを頂いておる時代に富士がある。富士と言えば、最高のタバコですよ。あれが集まってくるようになりました。ビーズの変わり初めは*だった。次はビーズの玉が出回るようになった。ところが今度は富士がだんだんお供えが上がるようになった。私はそれっきりタバコを止めました。これでも頂きようだったら本当に妙がつきる。私は思おうたんです。たとえば、本当に話の種にいっちょうそういう所*にひとつやらして頂こうという。それはそうですけれどもいわゆるそういうようなことは私は分に過ぎるという事。それが自分という春を知っとらにゃ出来ない。もう一つ驚いた事は非常に大きな職人を雇うでですね。年々伊布院釜という釜が出来ておる。自分でも絵をかかれるし、陶器を作られる。丁度昨日釜あき、釜あけの日であった。その中にですね。その沢山焼いておる中に高橋正雄先生の言葉があったのに驚きました。「見ること、見ること、自分を見ること」という言葉があるですね。それが書いちゃる。これは高橋先生の言葉ですかと聞くと、冗談じゃないですよ。それは私の言葉なんですよ。やっぱり偶然というものがあるんですよね。それは後から高橋正雄先生の話をさせて頂いたんですけど、不思議なこともあるんですね。実は私がいいだした言葉だとこう言われる。その方は、私どもが知っている限りでは高橋正雄先生の言葉、それがここに書いてある。見ること見ること自分を見ること、自分を見極めることが出すね、私はいうならば、おかげを落とさんで済む。いばらんで済む。今日私はここんところをですね。先生と言われるようになったりね、旦那様といわれるようになったりすると、頭を下げることを忘れるとそこで例えば夫で頭を打つような結果になる。そういうやはり出来た、やはりやり手な方ですけれども私はどう思うても今日私頂いた所がこの45節、私はこの方が今夫で頭を打っておられる感じが致します。自分で気が付いておられないですから、こりゃなんとかお会いしたよしみですから。何とかこの事を知らせる機会があるなら、お知らせせなければいけんなあと。ここでぜひ尋ねたいというておられますから、ここんところをぜひ言うてあげたいと思うとるのでございますけれどもね、いわゆる信仰的な雰囲気が好きで自分でも10月上旬からずーと写経、お経を写しておられる。もう般若心経なと自分でそら言われる位まで書かれるそうです。すばらしい。それは読んで聞かせてもらいましたけれどもね、ですから、あれが身についておられるなら、問題ないのです。ただ、知っただけでは読んだだけでは役に立たないですね。いわゆる自分が天で頭を打っておられるという事、気が付いておられないという感じでした。夕べあちらで12時までいろいろあり、12時からタクシーで送ってくださった。タクシー代がおそらく4 ̄5千年はかかるだろうと思いますね、丁度2時間半かかっておりますからね。こちらで*すうと言うてもいや向こうの方で取って来れるかろと言い出す。そんなけんきなことでございましたがそれでもやはり何とはなしに最近頭を打っておられる色々な話を聞かして頂きましてです。おかげを頂かなければならない。私と嫁が出来ということはおかげのきっかけが出来られたようなと感じます。そこで私どもがですよ。そういう足元のおかげを頂いていない訳なんですから、言うならば、にもかかわらず、私どもが頭を下げることを忘れとりゃせんかと言うこと。人から先生と言われるほどしの徳も受けていない。人から旦那様と呼ばれるほどしの身代りも出来ていないのにです。物を軽う見る人を軽う見る物事を宝と思われる宝までも踏みつぶすような事をする。**それではいよいよ願うだんじゃーない。開けかかった目までもつぶれる。ましえや私どもがですね。特に人を軽うみると言うような事ですね。本当言うたら、私どももう本当に見ること、見ること自分を見ることという事になってきたらですね。もう誰よりも彼よりも劣りはてておる自分を分からにゃいけません。あの人は馬鹿じゃあると言う人でもよーく見てみなさい。私よりも素晴らしいもんがあるから。その人は、不思議にその人を生かすことになる。いよいよ自分を見極めていきよると「見ること見ることである。自分を見ること」して見るとその人達でもいわば自己主張しておらねばならない。誰でも彼でも頭を下げる訳にはいかないのですから。私*じゃないんですよ。心に感じることが出て来るのですけれど何時も私は頭を下げて通らして頂いておる。三*様は実ほどかがむ。実ほど、実れば実ほどかがむ。自分達が本当に身代りが出来ない。本当にお徳を受けて行くことが出来ないという証拠ですね。****ほどかがんで通らなきゃいけんのに実ほどかがんで行きようらんことは。そんなもんじゃないと言うことです。私どももやはり身代りも頂きたい人からは徳考と言われるほどしのお徳も受けたい。ならば先ず徳者でもない、身代りも出来てない時にです。いよいよ自分というものをわからして頂いて何時も頭を下げて通っておるような何時も誰でも前でも**を低うしておれるようなものを本気で身につけておきたい。そして身代りが出来、そしていうなら、徳考と言われるようなおかげを頂いていかなければならん。折角うけかかっているおかげでもまたしんがでるとおかげを取り外すぞとおっしゃる。これはまだ頂いておらんのですよ。頂かかっておるのですよ。皆さんがおかげを頂かかっておる。一生懸命信心をしておられると言うことは、皆がおかげを頂かかってするけれども慢心がでるとおかげを取り外すぞ。取り外すと言うことは、頂かかっておるおかげまでも取り損なうということです。頂損なうと言うことです。いよいよ本気でですね。実意丁寧の神信心をさせてもらうてわかれば、わかるほど本当に業をひこうして行く。わかれば、わかるということは、いよいよ自分自身がわかっていくという信心、私はもう本当に痛感致します事はね、偉い人がええふうをするのはありがたいんですよね。ところが偉い人は偉いふうをしませんものね。だいたいがその方は非常にいわゆる欲がないんですよね。自分では全然欲がない。もう色々人助けの事たくさんなさっている話を聞いたんですが。けれども欲がない、欲がないというておる間は欲があると私は思う。自分は欲がない、欲がないとは自分では欲があるとです。本当に欲がないとは自分では欲があるとです。本当に欲がなくなったら、言わんでよいのです。ですから、本当に偉い人は偉がらんですよ。偉そうしとらんです。これではおかげ頂けん。お徳を受けられん。本当に偉くない者がですよ。徳のない者がですよ。徳考のふうをしたり、徳もない、力もない者が偉そうなふうをしとる位、こんな滑稽な事はありません。ですから、だんだん私どもはおかげを頂かなければなりませんのですから、おかげを頂いていったら、それがいかにも自分の力で頂いたふうな思い方が出来ていきよる時にはいよいよおかしいと気付かしてもろうて人から笑われんでもすむ。神様から笑われんでも済む。私達になっていよいよ信心のお育てを頂きたいと思います。昨日あちらに参りまして丁度こちらに着いたのが2時半。そらからお風呂に入りましてから、そのまま私は休まずに、御用をさせて頂きましたんですけれどもね。とにかく大きなとにかくけたはずれた人にお会いしたということ。よい意見合い悪い意見合いにおいてですね。もし私どもがこのようなおかげを頂いたら、ここんところこげんじゃなかろうと思うた。ああいうおかげも受けなければならないというふうに思わしてもらい、とにかくやっぱり大きい人とか偉い人に会うたんだに何か頂いておるけれども大きい人でも大きくなやんでおる。もっともっと限りなく大きくなって行ける人がおしいことにです、頭を天に打っておる。頭を叩かれてもそれに気付かないのも又これは気の毒なことである。人の事はわかるけれども自分の事はわからんのですけれどももう本気で一つそこんところおかげ頂いて神殿もでけておらんけれども信心もできておることもないけれども私どもがそれで**よかけんことをしとおらんじゃろか。本当に見当に見当を加えさせて頂いて金光様の御信者らしい御信者にいよいよさせて頂かなきゃならんと思いますね。どうぞ。